緑の目の猫 第1話 ミッキー

第1話 ミッキー

泣きむせぶ母の電話で慌てて実家へ帰ると、既に祖母はドライアイスと共に白い布団に寝かされていた。親戚たちに緑ちゃん大変やったな、と手招きされて布団の横に腰を下ろすも、眺める顔は二週間前に施設で見たのと何も変わらない。暖かい日曜の午後、一体なんのために彼らは泣いているのかとさえ思うが、上下するのをやめた胸のあたりや触れた額の不自然な冷たさに、祖母はこの世を手放したのだと納得せざるを得なかった。

来ては出てゆく人の流れに押されて奥の座敷に移り、彷徨う視線が捉えたのは記憶より幾分小さいおじさんの背中だった。網戸の向こうの縁台に座り、右手の指にちびた煙草を挟んでいる。灰色のポロシャツの襟元は色あせ、くたびれたズボンに毛玉が浮いていた。一人離れて皆に背を向けている姿は、私の中のおじさんをより鮮明に浮き上がらせた。確かにそこにある溝を、震える指から落ちる灰が埋めていく。

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思い出すのはおじさんのコレクションだ。切手、ペットボトルのキャップ、記念硬貨。蝉の抜け殻や、新聞の切り抜きを貼ったスクラップブック。気前よくくれようとすることもしばしばで、たいして執着はなかったのかもしれない。私は切手が一番好きだった。色鮮やかな紙片の一つ一つが私を知らない世界へ誘った。豪華な日本家屋、怪しげな光の中で踊る男女。可愛い春の兎、読めない文字が書かれた外国のもの。様々な絵柄を飽きずに何度も眺めていた。蝉の抜け殻は気持ち悪くて見たくなかったが、おじさんは透明のタッパーに重なり合うように入ったそれを、毎回必ず見せてくるのだった。

名残惜しそうな太陽が傾く夏の夕方、おじさんの家に行く。門から入ると縁台におじさんとミッキーが見えた。犬走りの打ち水がむせ返る中、おじさんは缶ビールを片手にぼんやりと座っている。私はランドセルを下ろす。切手を見せてと頼むと、おじさんはどれどれ、と部屋の中に入っていく。私は網戸越しに扇風機の風を受けながら、隣に座るミッキーの様子を伺う。ミッキーも張り詰めた空気を漂わせ、私が体を動かすたびに耳を動かして警戒する。私たちは互いに相手の動きが読めず、二人になるとどうしたらいいのかわからないのだ。生ぬるい風が汗ばんだ首筋を撫でる。そうしてただおじさんが戻ってくるのを待っていた。

おじさんが抱えて持ってくるコレクションは、ミッキーのおもちゃでもあった。蝉の抜け殻を粉々に潰し、スクラップブックの表紙で爪を研いだ。先だけ白い四つ脚が、じゃれつくたび残像になって揺らめいた。切手だけは守ろうと腕に抱え込み、蝉のタッパーをミッキーの方へ押しやると、おじさんは声を出さずに笑った。そして私から切手を取り上げ、静かに部屋の中にしまった。

鍵っ子の私は大抵おじさんの家で夜まで過ごし、夕飯をよばれた。おばさんが汗をかきながら大量のおかずを作り、おじいさんとおばあさん、いとこたちが卓を囲む。おばあさんは孫らの立膝や迷い箸を咎め、娘の料理を一つずつ批評する。おじいさんは影のように静かに食事を終えると、食後の薬を愛おしそうに飲んでいた。おばさんは私にもっと食べろと勧め、いとこたちはテレビを見ながら笑う。いかにも賑やかな家族の夕食だった。

そしてその間、おじさんはまだミッキーと縁台にいた。網戸の向こう、黒猫とおじさんのシルエットがぼんやり浮かぶ。なぜ一緒に食べないのか、聞くのも躊躇うほどにそれは当たり前のことのようだった。おじさんは背を向けて煙草を揺らし、ミッキーを撫でていた。気位の高いミッキー、その気まぐれに一番丁寧に付き合ってやるので、おじさんは彼女に存在を認められていた。

食事が中盤に差し掛かる頃おじさんは部屋に入ってきて、台所から缶ビールとチーズ鱈を取ると再び縁台へ戻った。おばさんは横目で睨み、猫にそんなんやらんといて、と叫ぶ。おじさんは返事の代わりに網戸の向こうから缶を開ける音を響かせる。あたりは真空状態になる。おばさんは厳しい顔をしているが、他は皆表情を消して声も出さない。それは家族が持て余している瞬間だった。しかし五秒も経てば霧消し賑わいが戻ってきた。

いつもその繰り返しだった。夫婦は毎回同じやり取りを繰り返し、家族は同じようにやり過ごした。彼らはその後何事もなかったように食事を続けるのだが、私は毎回居心地の悪さにいたたまれなさを抱いていた。

夕食が終わる頃に母が迎えに来ていたので、おじさんがその後食事をしていたのかは知らない。帰る道々、おじさんのコレクションやミッキーのことを母に話したが、その食卓の奇妙さだけはどうしてもうまく言葉にできなかった。

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中学生になると、おじさんの家は遠のいた。年近いいとこの存在が気恥ずかしくなったこともあるが、一家で父方の祖母宅に引っ越したため、そもそも行く理由がなくなったのだ。クラスメイトと腹を探り合い、部活で上下関係に苦しむ日々を過ごすうちに、おじさんの家のことは瞬く間に頭からこぼれ落ちていった。

ミッキーの失踪を知ったのは、そんなある日のことだった。その頃反抗期を迎えていた私は、過剰な好奇心に満ちた母に耐えかねていたが、その時ばかりは彼女の話を聞かずにいられなかった。母も私の気配を感じたのだろう、いつになく丁寧に喋った。姉さんから聞いたんやけど。朝起きたらもうおらんかったんやって。健くんと美智子ちゃんも探したけど見つからんのやって。私はいつまでも話に出てこないおじさんのことが気になった。おばさんはきっと、おじさんがどれだけ不安に思っているのか想像できないのだろう。縁台の二人の背中を思い出す。おじさんは今一人で同じ場所に座っているのだ。父はテレビに夢中で聞いておらず、祖母に至っては美智子ちゃんはもう嫁に行く年頃かえ? と頓珍漢な感想を漏らした。私はいらいらしてきた。おじさんを分かってあげられるのは自分しかいないのだと、使命感さえ込み上げてきた。母はそれ以上説明することがなくなると、別の話題に移った。

だからと言って私は何もしなかった。朝起きれば急いで学校に行かねばらないし、教室ではお揃いのペンケースや授業中に回す手紙で仲の良さをアピールせねばならないし、放課後は先輩の機嫌をとるためにコンビニまでジュースを買いに走らねばならなかった。忙しかったのだ。それでやはり失踪のショックは徐々に薄れて消えていった。

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目の前の背中が過去に重なる。もちろんミッキーはいない。見つめているとおじさんは不意に煙草をもみ消して立ち上がり、網戸を開けて部屋へ入ってきた。私よりも背が低くなっていて顔は黄土色、腰は曲がっている。窪んだ目で私を一瞥し、何も言わずに部屋を出て行った。すれ違う時に酒の臭いがした。その態度に再会の懐かしさはなく、私は違和感にとらわれて後を追った。おじさんは祖母の寝かされた部屋を横切ると、まっすぐ台所に入った。台所には母がいた。

おじさんは勝手に冷蔵庫を開け、中を物色し始めた。母は呆然と見ているだけだった。戸を開け閉めし、缶ビールを一本取り出すとおじさんは私を振り向いて言った。

「チーズ鱈は」

母は弾かれたように、私に向かって姉さんは? と聞いた。首を振ると、母はおばさんを探して家の中を見回り始めた。おじさんは私からチーズ鱈は出てこないと判断したのか、食卓の菓子鉢の中から適当につまみを取ると、また奥の座敷に戻って行った。前後左右に揺れながら、それでも確かな足取りで縁台に出る。親戚たちは口では祖母を弔いながら、目で異様なおじさんの姿を追っていた。おじさんは腰を下ろして庭の方へ身を乗り出し、右腕を突き出すと持って来たスルメイカをひらひらと揺らし始めた。どこか向こうの一点を見つめている。口の中で何かを呟き、誰かへ呼びかけているようだった。私はおじさんの動きが読めず、怯えながらも耳をすませた。

それはおばさんの、お父さん、という鋭い呼びかけに隠されたけれど、辛うじて聞き取れた呟きにぞっとした感覚は忘れられない。おばさんはおじさんの腕を掴んで無理やり立たせ、そばに来ていた母にごめんよもう帰るわ、と青ざめた顔で囁いた。おじさんはスルメイカをしばらく見つめていたが、そのうち口の中へ入れてくちゃくちゃと食べてしまった。小さくなったおじさんはまるで子供のようだった。おばさんは親族の間を掻き分け、おじさんを引きずっていく。視線が二人を刺す中、くちゃくちゃと咀嚼する音だけが響き続けていた。

そうして二人は家を出て行った。開け放たれたままの網戸の向こうには春の庭が広がるだけで、私には何も見えなかった。

(挿絵:UC EAST


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髙田友季子

会社員兼小説家(修行中)
犬や鳥やモルモットは飼ったことがあるけど、ねこはない。時々アートイベントに参加したり、「あわい文庫」として自作のZINEを売ったりしています。