緑の目の猫 第6話 アレルゲン(2)

緑の目の猫 第5話 アレルゲン(1)

2017.10.26

第6話 アレルゲン(2)

それから時々、男と顔を合わせた。チラシは徐々に酷くなっていた。患者の苦しみを連ね、猫を世話する人を糾弾する。それはただおぞましさだけを伝える代物に成り下がっていた。

大抵男は早朝にやってきた。チラシを貼り、手書きの文字で装飾する。私は下に降り、ベンチに座ってその様子を眺めた。男はチラシを貼り終わると、挨拶をして隣に座った。私は男が揺らす空気の層を受けながら、この体からあの陰惨な言葉が溢れてくるのだと思った。

「あんまり意味ないんじゃないですか」

私は言った。男は何故だと言うように眉をひそめた。

「誰かが勝手に捨てに来るんです。皆それを仕方なく世話しているだけだと思います」

「猫を飼うなではなく捨てるなと言えということですか」

 私が頷くのを見て男は笑った。

「そのチラシは前から貼っています」

実習棟裏、食堂前、図書館裏。でもどうせ捨てに来るのは夜になってから。そんな時にチラシが見えますかね? 男は言って首を振った。

「世話をするから住み着いてしまう。猫は放っておいても生きていけます」

男はズボンの裾を上げた。縮れた毛の下に拳大の痣が広がっている。男の顔に生気はなく、萎びた皮膚はまがいものに見えた。私は平静を装った。男はズボンの裾を下ろし、ベンチの背もたれに体を預けた。

「姉は隣の部屋で寝ています。夜中に呻き声で目が覚めます」

冷たい風が吹き、木々がざわめいて葉を落とした。私は両腕で体をさすった。男は前かがみになって貧乏ゆすりを始めた。振動がベンチを通して伝わってくる。

「体を搔く音が響きます。呻き声は泣き声に変わります。そのうち物を投げ始めると、僕は止めに入ります」

そう言って男は黙った。私は暗闇の中に舞い散る皮膚のかけらや、血が滲んだ女の爪を想像した。そのうち学内に人の姿が見え始め、時折誰かの笑い声が響いた。昨夜は寝ていないのだと言って男は立ち上がった。顎の下に剃り残した髭が一本生えている。私は寒さに震えながら、去っていく男の姿を見送った。

* * * * * * * *

一度だけ、チラシが剥がされる瞬間を見たことがある。

夕方実習棟を出ると、壁の前に女の人が立っていた。長い髪を後ろでまとめ、横顔に険しい表情を浮かべている。その作業着姿に見覚えがあった。院生の展覧会で一番目を引く絵を描いていた。

雨の日だった。私は傘立ての中に自分の傘を探していた。詰め込まれた傘の中からようやくそれを引き抜いたとき、背後で紙が破れる音がした。見るとその人がチラシを剥がしているところだった。汚いものを触るように、爪の先でゆっくりとテープを引っ張っている。剥がし終わると丸めて近くのゴミ箱に捨てた。紙屑の軽い音がした。

目が合った。彼女は驚いて目を見張ったが、すぐに口の端で笑みを作った。目鼻立ちのはっきりした顔に表情の変化がよく映えた。

「ひどいと思わん? 気分悪い」

最近はこの人が猫の世話を手伝っているのかもしれない。私は黙って頷いてみせた。彼女は嬉しそうに微笑むと、実習棟内に消えていった。

傘をさして歩き出した。スニーカーに雨が染み込んでいく。捨て猫を憐れむ人と、捨て猫よりも憐れだという人のことを考えるふりをする。私は彼らの間で溶けて、目的地を見失っていく。それを自分がうっかりしていたせいにして、結局は猫を捨てる人や院生の彼女やあの男の責任にした。最初から目的地などなかったのに。

雨の中をただ歩いていく。その自覚くらいで私は傷ついたりしない。学内を一回りして、結局そのまま家へ帰った。冷たい雨は一晩中降り続いた。私は暖かい布団の中で、雨音を聞きながら眠った。呻きも痒みも、私を邪魔するものは何もなかった。

* * * * * * * *

チラシを貼る男の後ろ姿を眺めていた。テープの剥がし口が見つからず腹を立てている。きっと寝不足なのだろう。見るたびにやつれていくようだった。やっと貼り終わると、男は隣に座ってため息をついた。

「見るんなら手伝ってくれたらいいのに」

「コーヒーでも買ってきましょうか」

私はココアを啜りながら言った。男は何も答えない。

晴れ渡った空だった。冷たく鋭い空気が体に染み込んでいく。朝日に照らされ、アスファルトの割れ目がいびつな形に光っていた。野外のベンチは体の熱を奪う。外で過ごせる時期はとうに過ぎていた。

男が粘着ローラーを取り出し、自分の腕に転がした。腕から腹のあたり、ズボンへと移っていく。ひとしきり転がすと汚れたテープをじっと見つめた。そして再びため息をついた。

「僕自身は猫なんてどうでもいいんです」

口調が苛立っていた。ゴミ箱の中に剥がされたチラシが見える。男は粘着ローラーを鞄に突っ込んだ。白い柄が収まりきらずに飛び出している。

「ただ姉のためにやっているだけです」

私は黙ってココアを啜った。チラシは言葉で溢れ、一見何を訴えているのか分からない。男の行動には意味がない。それは彼自身が一番よく知っている。

「僕だって好きでやってるんじゃない。でも目の前で喚く人がいるんです」

僕にどうしろと言うんですか、と男は吐き捨てた。頭が左右に揺れている。漂う苛立ちに感染しそうになる。

私はココアを飲み干し、紙コップをゴミ箱へ投げた。コップは頼りなく浮き上がり、たちまち失速して地面に墜落した。飲み干したはずのココアがあたりに飛び散った。男がこちらを向いたのが分かった。私は気づかないふりをしてゴミ箱を見ていた。

あのねえ、と男が言った。いやに間延びした声だった。

「あんたがどれだけずるいか、僕は知ってますよ」

振り返って男を見た。黄色い顔には生気がなく、まばらな髭は黴のようだった。男の目に私の顔が映っていた。そこに浮かんでいたのは怯えかもしれない。

「僕は悪くない」

男は言った。私は立ち上がった。男の頭が左右に揺れている。本当に私は悪くないのだろうか? そういうところですよ、と男が見透かしたように言って笑った。僕もずいぶん酷いが、それを自覚しているだけ僕の方がマシだ。

開き直りやがって、と私は思った。足元には大きな空洞が口を開けていて、それは私の中の空白だった。あんたの絵は酷いと男が言った。なんの信念もない、課題だから描いているだけの、木と紙と絵の具でできたゴミだ。

男はチラシの前に立って肩を震わせた。その背中は笑っているようだった。足元の空洞が男を飲み込もうとしていた。私は震えながら男がその中に消えるのを待っていた。

空洞がその踵を捉えたとき男が振り向いた。目の奥の空白に痣だらけの少年が見える。私は驚いた。いつの間にそんな子を引き込んでいたのか。ずるい、と私は言った。私は一人でこの空白に耐えていたのに。少年が侮蔑の目を向ける。空白? それはただ面倒臭さに耐えられないことへの言い訳にすぎない。視界が白んでくる。見ると私の足は空洞に沈んでいた。私は二人を引きずり込もうと腕を伸ばした。二人はそれを振り払って背を向けた。手のひらは空をつかんだ。少年と男の姿が溶け合った時、私の体は空洞に沈み込んだ。

空白の底から声が聞こえた。そう望んでいたくせに。

* * * * * * * *

何度かの長雨を経て、季節は冬に差し掛かっていた。おじさんと実習棟へ歩いていく。おじさんはジャケットで膨れ上がっている。私は上着のポケットに手を突っ込み、前かがみに歩いていた。

鍵を開けるおじさんの向こうに猫アレルギーのチラシが見えた。私の視線に気づいておじさんもそのチラシを見遣った。おじさんはため息をもらすと、なんやケッタイな張り紙やな、と言った。

「何書いとん、あれ」

「猫アレルギーについてらしいですよ」

そう言うと、おじさんは壁に近づいてまじまじとチラシを眺めた。しかしすぐに首を振り、字がこまあて読めん、と言った。

「あんなんいつからあるんかいな」

「結構前からありますよ」

私は答えたが、既に興味を失っていたおじさんは適当な相槌を打ち、警備棟へ帰っていった。

ベンチに座ってチラシを眺めた。確かに字が小さすぎて、ここからでは全く読めない。きっと毎朝律儀に貼り直しに来ているのだろう。私は目を閉じた。あったはずの空白はその在処をくらまし、瞼の裏では残像が揺らめくだけだった。男の黄色い顔、赤紫色の痣、少年の細い手足。それらを既にもう思い描けなくなっていることに、私は傷つきはしなかった。私は何かと溶け合うことを望んでいた。それがたとえ愚かなことであっても。その望みが叶いつつあることに、私はようやく気づき始めていた。

(了)

(挿絵:UC EAST


ABOUTこの記事をかいた人

髙田友季子

会社員兼小説家(修行中)
犬や鳥やモルモットは飼ったことがあるけど、ねこはない。時々アートイベントに参加したり、「あわい文庫」として自作のZINEを売ったりしています。