緑の目の猫 第4話 白い猫

第4話 白い猫

目覚めると窓の外は薄明るく、街が朝日を浴びて動き始めていた。傾げていた首がこわばり、動かすと痛みが走った。羽織ったパーカのチャックを閉める。早く帰って自分の布団で眠りたかった。走行音に混じって幾人かの寝息が響いている。車内の時計は六時二十二分を示していた。事務所へは数分で着くはずだが、今日の運転手はあと二十分は走るだろう。

フリーペーパーで見つけたアルバイトは「数えるだけ」「誰でもできる」「高収入」と謳われていた深夜の棚卸し業で、数人でバンに乗り合わせて大型店舗に行き、商品を数えるというものだった。確かに時給は良かったが、よく知らない人たちと同じ制服を着て、白けた店内を数えて回るのは気持ちのいい仕事ではなかった。

斜め前の女の人を眺める。俯いた頭が車の振動で揺れていた。髪に隠れて表情は見えない。眠っているのかもしれない。車酔いしやすいらしく、最後列がだめなのだと今日は助手席に座っていた。私は先日の惨事を思い出しては時折彼女の様子を窺っていた。

彼女は初日の勤務時、帰りの車内で嘔吐した。絞り出すようなうめき声とともに彼女のズボンからシート、床にぼとぼとと吐瀉物が流れた。慄いた隣席の男が叫び声を上げ、車内は騒然となった。私は男を間に挟んで同じ列に座っていた。男の向こうから饐えたような臭いが漂ってくる。開けられる窓は全て開いたようだが、私の席の窓ははめ殺しになっていた。私は窓に体を押し付け、口で息をしながら拳で鼻と口元を塞いでいた。

介抱のためにコンビニで車を停め、手分けで車内を片付けた。男の制服に白っぽい飛沫が見えた時、休憩時に彼女がメロンパンを食べていたのを思い出した。結局その日の終業時間は一時間遅れ、私は午前中の講義を休んだ。

車の運転は数人の担当者が決められていた。今日は背の高い中年男で、勤務時間を稼ごうと余計なドライブをする癖があった。十五分刻みの給料を楽に余分に受け取りたいし、皆もそうだと考えているのだ。彼は嘔吐時の運転手ではなかったから、車内に爆弾を抱えていることを知らないのだろう。また吐いたら彼が片付けるべきだと思いながら、私は再び微睡み始めた。

眠りに落ちかけた頃、重たい音ともに車が横揺れした。運転手が舌打ちする。衝撃に驚いて目を開けた。勢いで隣の女性に肩をぶつけた。しかし彼女は眠ったまま眉根を寄せるだけだった。後部座席の寝息が一瞬途切れ、すぐに規則的なリズムに戻った。助手席からは相変わらず揺れる頭が覗いている。窓の外は穏やかに朝が流れ、車は何事もなかったように走り続けていた。完全に目覚めてしまったのは私一人のようだった。道路に落ちていた何かにぶつけたのかもしれない。

ようやく事務所に到着した時、時計は六時四十四分を示していた。着替えて外に出ると肌寒い空気が体を包んだ。これから厳しくなる夜の寒さを思うとうんざりする。新しいアルバイトを探すべきかと考えつつ帰り道を歩いた。道路にはゴミが点々と落ちている。誰かが踏んだ菓子の袋を、私も踏みつけて歩いていく。

角を曲がると、道の先でたむろしている小学生が目に入った。近づくうちに、彼らが何かを見つけて騒いでいるのがわかった。車が揺れたのがその周辺だったことに気づくのと、小学生が叫ぶのとがほぼ同時だった。

「猫が死んどる!」

* * * * * * * *

子供の頃、近所に古い駄菓子屋があった。

三坪程度の狭い店だった。入り口から奥へ棚が三つほど伸び、駄菓子がぎっしり並んでいた。片隅には色あせた雑誌や野菜の種、埃まみれの文房具もあった。店の奥は住居になっていて、その境界に店主の老婆が座っていた。老婆はいつも背中を丸め、ぶっきらぼうな口調で代金を請求した。

老婆の膝には常に白い猫がいた。猫は大抵眠っていたが、騒がしい子供らの声に時折薄眼を開けて低く唸った。老婆が節くれだった手で背中を撫でると、猫は黙って再び目を閉じた。一人と一匹は店の暗がりに溶け込み、太古の昔からそこに生きているように見えた。

店にはろくな照明もなかったが、暗がりの中駄菓子を探すのは楽しかった。大きな容器に詰め込まれた串刺しのイカ、錠剤のようにシートで包まれたチョコレート。ボタンを押すと紙箱から出てくるフーセンガム、吹けば音がするラムネや飴。スーパーボールのくじ引きも人気で、店の外でボールを跳ね上げる男の子をよく見かけた。

駄菓子屋は放課後や休日には子供で溢れた。私も友達やいとこと連れ立って足繁く通った。その日もいとこの健くんと二人、小遣いを握って店に向かった。

二人で買うものを相談しながら中に入ると、すでに五、六人の少年がいた。健くんは友達の姿を見つけ、輪に入ってはしゃぎ始めた。突然放り出された私は黙ってその様子を眺めていた。私の欲しい駄菓子の前で少年たちが騒いでいる。その向こうには老婆と猫が静かに座っていた。私は諦め、他の駄菓子を探しに別の棚に向かった。

その棚は店の隅にあり、老婆や少年たちから死角になっていた。より薄暗い一角には、不人気な駄菓子や古びた雑貨が並んでいる。闇に視力を奪われ、私は目を慣らすために瞬きをした。少しずつ濃淡が現れて、闇の中におぼろげな人影が浮き上がった。ここにも先客がいるらしい。私はじっと目を凝らした。

ふと人影が棚から何かを掴み、腰のあたりにねじ込んだ。それは一瞬の出来事だった。徐々に鮮明になる視界の中、現れたのは知らない少年の背中だった。私はその行動の意味に気づくと、鳩尾を押しつぶされたような感覚に襲われた。見間違いであれと願った。しかし事実は打ち消せなかった。次に感じたのは恐怖だった。目撃したのが彼に知れたらどうなる。立ち去ろうと後ずさると、靴底が土間を擦った。ざらついた音が大きく響いた。慌てた私は商品棚に手をつき、毛糸玉が土間に落ちた。少年が素早く振り向いた。私はその場に立ち尽くした。私たちは暗闇を挟んで見つめ合う格好になった。

少年はゆっくり近づいてきた。足音はしなかった。彼は目の前で立ち止まり、私をじっと見据えた。それは光を映さない目だった。私の感覚は彼の黒い目だけを捉えていた。時間が膨れ上がって縮み、音や匂いを失った。

彼が視界から消えた。足元を見ると彼が屈んで毛糸玉を拾っていた。私はその頭頂部を見下ろした。白いつむじが暗闇に浮かんでいた。毛糸玉を棚に片付けると、少年は何も言わずに店を出て行った。私は俯いたまま、毛糸玉が落ちていたあたりを見つめていた。

緑ちゃん何も買わんの、という健くんの声で我に返った。振り返ると健くんが不思議そうな顔で立っていた。私はその場を離れ、少年たちの波が引いた商品棚に向き合った。あらゆる駄菓子を前にして、その輝きがくすんでいることに気がついた。

私は横目で老婆を見た。何も言わないところを見ると、さっきの犯罪には気づいていないのだろう。今すぐこの場を去りたかった。健くんは無邪気に店内でスーパーボールを跳ね飛ばしている。何か適当に選んで早く帰ろう。私はガムの包みを掴んで老婆に手渡した。十円、と老婆が呟き、私はポケットから十円玉を取り出した。

その時猫が頭をもたげた。こちらを向き、まっすぐ私を見透かした。黄色く丸い目だった。私は叫び出しそうになった。店中に猫の目が光っている情景が浮かんだ。投げつけるように十円を払うと、老婆の手からガムをひったくった。健くんを押しのけ外へ駆け出した。道中転んで膝を擦ったが、血が滲むのにも気付かなかった。なりふり構わず走って帰ると、握っていたはずのガムはどこかに消えていた。

* * * * * * * *

小学生が言う通り、道路脇に猫が死んでいた。私は思わず目を背けた。一瞬視線を捉えたその死体は、白い毛がどす黒い血に汚れていた。太った少年がそれを指差し、数人の少年がおっかなびっくり覗き込んでいる。朝日を跳ね返して彼らのランドセルが光っていた。ラッシュ時を迎えつつあり、道ゆく車が増えていた。ドライバーは迷惑そうに猫の死体を避けていく。

私はさっきの瞬間を思い返した。あの時轢かれたのに違いなかった。自分のせいではなくても気分が悪かった。これに懲りて無駄な運転をやめて欲しいが、おそらくそれは望めない。私は運転手の粘着的な喋り方を思い出して鳥肌を立てた。やはり吐瀉物を被るのが一番かもしれない。道路で物思いに耽る私を避けて、自転車や通行人が過ぎ去っていく。

一人の少女が遠巻きに猫を見つめているのに気づいた。その目には不安げな、打ちのめされたような色が浮かんでいる。私は急に心もとない気持ちになった。いつか私も少女のように、何かに怯えていた気がする。しかしその記憶は深く奥底に沈んでいた。思い出そうとするほど手近な現実が邪魔をした。私は何度も誰のせいで猫が死んだのかを考え、頭の中で運転手を罵った。

秋風が吹き、道路のゴミや落ち葉を散らしていく。足元にガムの袋が転がってきて、途端に自分の布団が恋しくなった。擦り切れて中身の潰れたそれを避け、私はその場を立ち去った。
(挿絵:UC EAST


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髙田友季子

会社員兼小説家(修行中)
犬や鳥やモルモットは飼ったことがあるけど、ねこはない。時々アートイベントに参加したり、「あわい文庫」として自作のZINEを売ったりしています。