緑の目の猫 第3話 シマ

第3話 シマ

階段の上段に腰掛け、堤防から川を見下ろした。陽を受けた水の流れが反射光を揺らしている。辺りに人影はなく、向こうの橋の上をゆく車もわずかだった。川縁のグラウンドに苔むしたワゴン車が佇んでいる。

土曜の昼下がりだった。日差しはあれど、風が季節を変えたのがわかる。遠くの鳥が鳴きやみ、静けさの底で対岸の汽車がレールを軋ませた。法面の草が揺れて足をくすぐった。

私はスケッチブックと鉛筆を取り出し、目の前の景色を写生し始めた。川、緑、橋。ありふれた田舎の風景。次の絵のテーマを考えあぐねて焦りだけが募り、とりあえず手を動かそうと実習室を出てきた。流れ着いたこの場所を選んだ意味はなかった。私は何かを追い払うように画面を鉛筆の線で汚した。

立ったり座ったり、場所を移動したりしながら数枚描き終えた頃、日差しが陰って強い風が吹きつけた。上空を雲が素早く流れていく。私は首を回し、スケッチブックのページをめくった。突破口は見つかりそうにない。別の場所を探した方がいいかもしれない。
「学生さん?」
振り向くと、向こう側の路肩に五十がらみの女の人が立っていた。髪は短く小太りで、猫の絵のTシャツが体の線を強調している。表情のない顔は意図が読めず、視線は私の手元に注がれていた。

そうですと返事をすると、女の人はそれ見せてくれる? とスケッチブックを指差した。手渡すとパラパラ漫画を読むようにページをめくり、上手やねと短い感想を述べた。そして私も何か作ったりするん好きなんよ、とポケットから皺くちゃの紙切れを取り出した。
「それ何ですか」
「折り紙よ。私が折った」
彼女はどこか自慢げに言った。手に取ってみると、湿った紙が辛うじて猫の形になっている。オレンジ色の顔に震えた線で目鼻が描かれていた。
「猫ですね」
私が言うと彼女は微笑んだ。折り紙や雑誌の切り抜き集めが好きなのだと言い、別のポケットから俳優の写真を取り出した。そしていかに切り抜きが楽しいのかを語り始めた。
「雑誌買う余裕はないけん、図書館で配布処分するときに行くんよ。人気のあるやつはすぐに無くなるけん、見つけたらすぐに取らないかん。特別誰かが好きなんとは違う、綺麗な男の人が好きなだけやけど。この人らの目があったら生活に張りが出るよな。おはよう、行ってきます、ただいま、おやすみ、って話しかけたら笑い返してくれる」
彼女は手の中の切り抜きに向かって滔々と語る。風は次第に強くなり、今にも降りそうな匂いがする。私は笑みを作って頷き、話が途切れたところを狙ってそれでは、と口を挟んだ。彼女は空を見上げ、
「雨降りそうやし、うちで雨宿りして行き」
と言った。私はもちろん辞退した。

「まだ降ってないですし、降ったらコンビニで傘買えば済むし」
「この辺にコンビニないわよ。おたく近所? ここまで何で来たん」
この辺りの住民ではない、汽車と徒歩で来たと言うと、なおさら駅や遠い、途中で絶対雨が降るからうちに寄りなさいと言って聞かない。言い出した手前引っ込みがつかないのかもしれない。今から走れば間に合いますから、と私は何度も繰り返した。

堤防の上は私たち以外誰もいない。Tシャツの猫が笑いながら二人の押し問答を聞いている。手前の山は灰色の雲に飲み込まれ始めた。ちょっと寄れば彼女も気が済むだろう。私は根負けして、家を訪問することにした。

* * * * * * * *

堤防から五分ほどの所にある、古く小さな平屋だった。外壁は灰色に汚れ、雨戸のペンキは方々剥げている。中に入るとすぐ台所で、紙くずやビニール袋、空き瓶やペットボトルが散らばり雑然としていた。彼女は私を台所の机に座らせた。鞄を下ろすのが何となくためらわれ、肩にかけたまま部屋の様子を観察した。彼女は空気が淀んでいると言って家中の窓を開けていく。曇りガラスの嵌まった引き戸を開けたとき、向こうの部屋が見渡せた。

六畳の和室は真ん中に座卓が置かれ、その上に大きな白い紙が被さっていた。紙の下に何かあるのだろう、シルエットが凸凹している。畳の上には破れた座布団と、雑誌が積み上げて置かれていた。

そして座卓の向こう、腰から下あたりの壁面は、一面切り抜きと折り紙で覆い尽くされていた。向かって右側が折り紙、左側が切り抜きで埋まっている。よく見ると折り紙は全部猫の形だった。顔だけのもの。胴体まであるもの。赤、青、黄、緑、あらゆる色。それらが一枚の写真を取り囲むように配置されている。俳優ではなく、太った茶トラ猫の写真だった。

彼女はしばらく洗面所にこもり、何故か香水をつけて出てきた。重く甘い匂いが部屋の匂いに混じり、決定的な違和感を漂わせた。彼女は堤防での勢いを失い、口の中でぶつぶつと何かを呟いている。コップに麦茶を注いで私の前に置き、自分も同じものを持って机の端に座った。私を避けるように顔を背けて黙り込み、忙しげに音を立てて茶をすする。冷蔵庫の上の菓子を気にしつつも、出してこようとはしない。私は目の前のコップを見つめた。茶色い液体の中を澱が上下に浮遊している。

私は窓を閉めないのかと尋ねた。風が吹き込んでいたし、座卓の紙も飛んで行きそうに見える。しかし空気がこもるのが嫌だろうと言って拒否した。空気の流れに乗って、甘い匂いが強弱をつけてこちらに向かってくる。
「おたくあれ見た、あの猫」
彼女は唐突に和室の壁面を指差した。私は頷き、可愛い猫ですねと言った。彼女はようやく顔を緩めると、席を立って写真の脇にしゃがみ込み、私を手招きした。袖から出た二の腕が揺れている。
「縞があるけんシマ」
父ちゃんが拾うてきた猫で、私に一番懐いた。優しい性格で、私のこと誰よりもわかっとった。ほなけどだいぶ前に死んでしもうて、それから猫は飼うとらん。写真を眺めて彼女は言った。ピンボケしていたが、ゆったりと歩く猫の姿が写っている。私は頷き、飾られた折り紙を触った。彼女はにやりと笑って座卓の白い紙をめくった。紙の下には色とりどりの四角い紙とビニール袋が並べられている。仕事の合間の内職。時々不良品が出るだろ、それをこそっともらうんよ。折り紙や買う余裕ないけんな。商品ならなおさら風で飛んだらまずいだろうと思ったが、積み上げられた紙の上にはちゃんと重石が載っていた。

お忙しそうですねと私は言った。会社勤めに内職、切り抜きに折り紙。合間で散歩と図書館の偵察。倹約に努めながらシマを彩り、俳優たちと会話を楽しむ。彼女は大きく頷き、雑誌の隙間から折り紙の本を引っ張り出した。これを見ながら猫を折るらしい。ここには彼女だけの完結した世界があった。彼女は折り紙を一枚引き抜くと、折り方教えてあげると言った。しかしどうして私がここにいるのだろう。私は明らかにこの世界の異分子だった。彼女はなぜ私をここへ呼んだのか?

猫の折り方を調べていたその時、空が低く唸った。ひときわ強い風が吹き込んで白い紙を舞い上がらせ、折り紙の山をむき出しにした。本を煽ってページをかき乱し、台所のペットボトルを騒々しく転がしていく。空気は湿り気を帯びていて、ついに雨が降り始めた。私は立ち上がった。
「窓閉めんと」
彼女は今度も首を振った。何がそんなに嫌なのか。次第に雨脚は強くなり、窓の付近はたちまち水浸しになった。私は堪らず最も雨が吹き込んでいる窓を閉めた。彼女は顔を歪めながらも私を止めない。構わず他の窓も閉めにかかった。もはや外は大雨だった。雨音のせいで彼女が何か言ったとしても聞こえなかっただろう。全て閉めるまでの間、彼女はずっとシマの写真を見つめていた。

窓を閉めてみると、部屋の中が薄暗いことに気がついた。彼女の向かいに腰を下ろす。外と隔てられて雨音は遠のいた。空気の流れが滞り、湿気を含んだ彼女の匂いが部屋に充満し始めた。本のページは恐竜の折り方を解説している。彼女は俯き、座ったまま少しずつ後ずさっていく。私は招かれざる客になったようで、なんとなく咳払いをした。

彼女が意を決したように顔を上げ、ほれはシマのせいじゃと言った。シマが時々畳の上で用を足してしまうのだという。その臭いがこもるのが嫌なので窓を開けていたらしい。おたく今咳したん、あれだろ、臭うんだろ。私は呆気にとられた。こんな天気の日は浄化槽やって臭う、ほら臭うはずじゃ。彼女は言い訳のように言葉を絞る。私には香水の匂いしかしない。全てが混ざった家独特の匂いは、今では慣れてしまって気がつかない。しかしそこに糞尿の気配はなかったはずだ。だいたいシマはもういないのではなかったか。臭いませんよと私は言った。

彼女は私をまっすぐに見た。まともに視線があったのはこれが初めてだった。その表情が険しく沈んでいく様を私は目の当たりにした。彼女は嘘言わんでええと唸り、おたくも他の奴と変わらん、と強く首を振った。誰もほんまのことは言わん。陰で臭い臭い言うて。

彼女は立ち上がって玄関へ歩き出した。慌ててついて行くと戸が開かれ、途端に雨音が部屋中に轟いた。
「もう去んでください」
叩きつける雨を受けながら彼女が叫んだ。濡れた肩からTシャツの色が変わっていく。突っ立っていると、彼女は焦れたように私の腕を引っ張った。冷たい汗で湿った掌が吸い付いた。煮詰めたような甘い匂いを嗅いだ瞬間、私は外に放り出された。背後で戸が閉まり、庇のない玄関先でたちまちずぶ濡れになる。腕に残った彼女の匂いが雨に溶けて消えていく。世界は唐突に閉ざされ、私はしばし呆然としていた。

雨が全身を冷やしていく。気がつけば夜がすぐそこまで迫っていた。服も靴も下着も濡れ、鞄の中のスケッチブックはふやけきっているだろう。とにかく自分の部屋に帰りたかった。私は雨の中、駅へ向かって歩き出した。

(挿絵:UC EAST


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髙田友季子

会社員兼小説家(修行中)
犬や鳥やモルモットは飼ったことがあるけど、ねこはない。時々アートイベントに参加したり、「あわい文庫」として自作のZINEを売ったりしています。