緑の目の猫 第2話 ハチ

第2話 ハチ

今朝国道で獣が死んでいた。烏が群がっているので遠目からでも察しがつく。一メートル程に近づいてようやく数羽が道を開けた。内臓が飛び出た赤い肉は元々猫だったらしい。

千佳は餌に顔を突っ込むナナを眺めながら、わざとそんな話をする。私は奥行きのない話に相槌を打ち、ねだるロクの前に水の器を置いた。水の中で舌を出し入れするだけでよく飲めるものだといつも感心する。

長い休みが終わり、大学内にもざわめきが戻っていた。夏は背中を見せ始め、青空に白い飛行機雲が伸びている。私は猫たちのそばに腰を下ろし、ビニール袋からパンを取り出した。差し出してみても、千佳は首を振るだけだった。

人気のない実習棟の裏、物思いに耽るのには御誂え向きだろう。私は視線を落とす千佳の前で遅い朝食をかじった。長い髪で彼女の表情は窺えず、世界の共有を難しくしている。私は残り少ない絵の具の種類と、得体の知れない千佳の恋人と、ロクの毛並みのことを同時に考えた。どれも大したことではなかった。

私がパンを食べ終わると千佳は立ち上がり、スカートの端を払って立ち去った。猫たちは満腹になったのか、各々好き勝手に寝転んでいる。野菜ジュースのパックを潰したところでポケットの携帯電話が震えた。千佳からで、明日から三日間泊めてもらうことにしてほしいとあった。私は返事をしないことで了承し、実習室に戻った。

* * * * * * * *

夏の始め頃、千佳は猫たちの存在に気づいた。猫の餌を抱えた私の後を黙ってついて来たのだった。

実習棟の裏に回ると園田さんと猫たちが待っていた。園田さんは私に向かって手を挙げ、それから首を傾げてみせた。意味が分からず近づくと、私の背後に向かって顎をしゃくった。振り向くと薄べったい笑顔を貼り付けた千佳が立っていた。

キャットフードや持って、どうしたんかなと思って。千佳は釈明した。私は黙って額の汗をぬぐい、荷物を園田さんに渡した。餌が皿に出されると、猫たちは我先にと突進する。びっくりするけん、声かけてよ。私は目を背けて言った。返事はなかった。猫たちの咀嚼する音が蝉の声に混じる。

仕方がないので三人で猫たちを眺めた。先に食べ終えたロクが、か弱く鳴いて園田さんに擦り寄る。水を与えると音を立てて飲み、また鳴いた。園田さんが顎の下を撫で、私は背中をそっと触った。ロクは私と園田さんの二人がいるときは必ず甘えてくる。一方ナナはロクの残した餌も全部食べ、あとはさっさと寝るかどこかへ散策に行ってしまう。

千佳は私たちをじっと見ていた。彼女の気配が気詰まりで、猫好きだっけ、と聞いた。やはり返事はない。アスファルトから立ち上がる熱気に、冷静な意識を取り込まれそうになる。園田さんはあからさまに私たちを観察していた。蔑むような好奇心を湛えたその目は、彼の性質の中で私が嫌うものの一つだった。千佳は知らないうちに私に恋人ができたと思っているのだろう。私はため息をついて立ち上がり、触る? と千佳を促した。

千佳はためらいがちに歩み寄り、ロクの隣にしゃがみこんだ。ロクは園田さんに顎を撫でられ続けている。その様子をしばらく見つめた後、千佳の手がロクの背中に伸びた。

その瞬間ロクは振り向き威嚇の声をあげ、千佳の手に飛びかかった。千佳は慌てて避けようとよろめき尻餅をついた。脇に置いていたバッグが腰に当たって倒れ、中身がぶちまけられた。ピンク色の財布、クリアファイルに挟んだ資料、花柄のカバーのスマートフォン、化粧ポーチ。園田さんは素早くロクを抱え込んだ。ロクは茶色い体を膨らませてしばらく唸っていたが、再び園田さんに甘え始めた。私は呆然と座り込む千佳を見下ろした。白いブラウスに汗染みが浮き、キャミソールが透けて見える。千佳は唐突に身を起こすと荷物をかき集めてバッグに詰め、能面のような笑みとおぼつかない言い訳を残して去っていった。

あの子見たことある、と千佳が完全に見えなくなってから園田さんは言った。同級生と千佳がラブホテルに入っていくのを見たという。あいつ地元に彼女がおるんやけどな。解放されたロクは伸びをすると、裏山の茂みに向かって悠々と歩いて行った。私は茂みの涼しさを想像しながら、詰めの甘いお友達ですね、と言った。

* * * * * * * *

千佳が寄越す連絡は、泊めて欲しいか泊まることにして欲しいの二種類だ。週に一度か二度の依頼に私は大抵了承する。理由は言おうとしないが、大体は想像の範囲内だと思う。千佳は煙草と石鹸が混ざった匂いを振りまきながら深夜にやってきて再びシャワーを浴び、私の布団の端で眠る。そのままホテルか恋人の家で泊まればいいのにと思うが、碌でもない理由で退室を迫られるのだろう。

ロクに襲われて数日後、千佳が再び実習棟裏に現れたのは意外だった。締め切りが迫っているとかで園田さんは実習室にこもり、私だけが餌をやっているところだった。決して猫たちに触れようとせず、逃げられる間合いを取りつつ様子を眺めている。

あの人緑の彼氏? 千佳は案の定そう尋ねてきた。私は首を振る。同じ専攻の先輩。千佳は食い下がる。仲よさそうに見えたけど。じゃあ他に好きな人がおるん? どんな人がタイプなん、紹介しようか? 頭上から降ってくる声に私は首を振り続ける。千佳が隣にしゃがみこむ。薄紫色のスカートが揺れて洗剤と汗の匂いが漂う。潜めた声が尋ねる。緑ってもしかしてまだ処女? 思わず顔を上げる。細い手が数日前にひっくり返したバッグを握りしめている。その笑顔から滲み出す苛立ちが私を飲み込もうとしている。私は恋人のいない知人たちの顔を必死に思い浮かべた。一度飲み込まれてしまえば、懸命に浮き上がってもまた次の手が待っているだけだ。それは千佳を見て知っている。

ロクが鳴いて水を要求した。蝉の声が辺りに響いていた。私は慌てて皿に水を注いだ。ナナがようやく食事を終え、日陰に移動すると地面に腹をつけて昼寝を始めた。汗まみれの顔をぬぐって振り向くと、千佳は姿を消していた。

* * * * * * * *

最近メンヘラ来てないな、と園田さんが言った。千佳のことらしい。泊まることにしてと連絡があってから三日目のことだった。出かけとるみたいですよ、と私は言った。来ていないことが分かるなんて、実習室から毎日監視しているのかもしれない。園田さんは千佳の恋人がここ数日地元に帰っているのだと言った。私は無言でロクの背中の毛を触った。

あの子面倒臭ない? と園田さんが言う。私はロクに襲われた時の千佳の様子を思い出す。彼女の必死さはしばしば反感を買う。私はそれを哀れむことで足場を保っている。

午前十時だというのに薄暗く、降り出しそうな灰色の雲が頭上に重い。時折冷たい風が吹き抜け、茂みの木々を揺らしていた。雨の日に猫たちがどう過ごしているのか私は知らない。雨の日は園田さんだけが餌やりに来る。園田さんは私が知らないことをたくさん知っている。私や千佳のこともその冷えた目で調べ上げ、私たち以上によく知っているのかもしれなかった。

泊めたつもりの三日間が過ぎても、千佳は姿を見せなかった。夏を押し流すような雨がようやく止んだ日の午後、園田さんが珍しく実習室に私を訪ねてきた。硬い表情の園田さんについていくと、実習棟裏に衰弱した三毛の子猫がうずくまっていた。ロクとナナは力のない新入りを遠巻きに眺めている。また捨て猫、と私はつぶやいた。園田さんの手に赤い首輪が握られている。この猫がつけていたのだろう、子猫用の可愛らしい華奢な首輪だった。すまんけど猫用のミルク買ってきてくれんか、と言って園田さんは財布から二千円を取り出した。私は頷き、ホームセンターに走った。

ミルクは数店回ってようやく見つかった。戻る途中、実習棟から講義棟へ抜ける通路を一目散に走ってくる千佳とすれ違った。千佳、と呼びかけたが全く気づかず、靴音を響かせて遠ざかっていった。

園田さんは準備万端で待ちかねていた。三毛猫は古いタオルに包まれている。ミルクを溶かすとロクやナナも使った哺乳瓶に入れ、三毛猫の口にあてがった。最初は弱々しかった吸い方もそのうち力強くなり、やがて全て飲み干した。園田さんは顔を強張らせたまま腕の中の猫を見つめている。

名前はハチかな、と私が言うと、園田さんはスマートフォンを取り出した。見せられたSNSの画面には生後間もない三毛猫が写っている。意図が分からずぼんやり眺めていると、園田さんは苛立った声でこいつだろ、と言った。見ると、確かによく似ている。園田さんは画面をスライドさせて別の写真を見せた。赤い首輪をつけた猫はこの三毛猫とそっくりだった。そっちを先に見せてくださいよと言うと睨まれ、これあいつの彼女の猫、と言った。

その意味を理解するまでに時間がかかった。そしてさっき千佳とすれ違ったことを思い出した。三毛猫は安心したのか眠っている。園田さんは忌々しげにスマートフォンをしまった。ロクとナナは並んで様子をうかがっている。私は走り去る千佳の姿を思い出す。波打つ長い髪、翻るスカートの裾。不在の間に起こしたおぞましい出来事。千佳の行動が理解できなかった。返すんですか、と私は尋ねた。園田さんは誰が誰に? と吐き捨てた。

ロクとナナがうとうと船を漕ぎ出した頃、園田さんはあんたもうしばらく来んでええよ、と言った。その低い声にようやく、園田さんが私にも非があると判断したことに気づいた。私の存在が面倒を連れて来たと思っているのだろう。私は虚をつかれ、弁解しようと口を開いた。しかし園田さんはそれを制し、あんたが思っとるような理由とちゃう、と言って立ち上がった。目覚めたロクとナナが園田さんの足元にまとわりついた。園田さんはダンボール箱の中に三毛猫を下ろすと、半分だけ蓋をした。三毛猫はよく眠っているのか、かさりとも音を立てない。ナナが一声鳴き、それを合図に二匹の猫は茂みへ姿を消した。私は立ちすくんだまま、去っていく園田さんの背中を目で追った。雨を含んだ黒い雲が空を覆っている。冷たい風が木々を揺らし、地響きのような葉音が辺りにこだましていた。
(挿絵:UC EAST


ABOUTこの記事をかいた人

髙田友季子

会社員兼小説家(修行中)
犬や鳥やモルモットは飼ったことがあるけど、ねこはない。時々アートイベントに参加したり、「あわい文庫」として自作のZINEを売ったりしています。