第5話 アレルゲン(1)
実習棟は他の建物に比べて古く、後の建て替えが決まっていた。壁はひび割れ、昔の落書きが風化して奇妙なシミになっている。入り口の外壁には展覧会やイベントのチラシが無造作に貼られていた。会期が終了しても剥がされず、古いものと新しいものが層をなしている。私は外のベンチで休憩しながらチラシの群れを眺めるのが好きだった。
太陽が雲に覆われた朝だった。ベンチでホットココアを飲んでいると、一枚のチラシが目に入った。貼られたばかりらしく、一番目立つ場所を陣取っている。絵も写真もなく赤と黒の文字だけで、その簡素さがむしろ目を引いた。私はよく見ようとベンチから立ち上がった。それはイベント案内でも、アルバイト募集でもなかった。最初の文が赤、二文目が黒で印刷されている。
公共の場で猫を育てないでください
猫アレルギーの人が迷惑しています
私はそれを二回読み、ベンチに戻ってココアを啜った。冷たい風が足元に吹き付ける。作業着の膝に空いた穴を指先でまさぐった。知らんかったな、と思った。誰が貼ったのだろう。
学内には猫が多い。実習棟裏にはもちろん、食堂の前や図書館の裏でも見かける。猫アレルギー、という言葉を頭の中で転がしてみた。その症状について何の知識もなかった。少し前まで猫の世話を手伝っていた私は、チラシの訴えに動揺していた。
十日経ってもチラシは一番手前にあった。増えていくチラシの中でそれは珍しいことだった。二週間ほど経って、文章が増えていることに気がついた。「はがさないでください」と青い字で記されている。私ははちみつレモンを飲みながらそれを眺めた。日に日に秋は深まり寒さを増していた。
ある日の早朝、私は警備員のおじさんと実習棟へ向かっていた。届けを出せば朝六時から鍵を開けてくれるので、静かな部屋で制作したい私は頻繁に申請をした。顔見知りになったおじさんと話をしながら歩いていると、実習棟の前に人の姿が見えた。黒いパーカにジーンズ、手に黒いトートバッグを下げている。おじさんがかなり手前から大声で挨拶をし、人影は驚いたように振り向いた。眼鏡をかけた線の細い、見知らぬ男だった。彼の顔の横にはちょうど猫アレルギーのチラシがあった。
「何か面白いもんあるで?」おじさんが言いながら傍まで歩み寄った。男は唇を薄く開いた。黄ばんだ顔にまばらな髭が生えていた。男は結局何も言わず、わずかに首を振った。頭を震わせただけにも見えた。私はおじさんの陰で目を逸らした。ここには芸術専攻の学生以外は滅多に寄りつかない。他学部らしき人が早朝に何をしていたのだろう。おじさんはそうか、と陽気に言うと鍵の束を鳴らして扉を開けた。中から木材と絵の具の匂いが漂ってくる。この男も入ってくるのだろうか。私は男が気味悪く、おじさんが帰るのを引き止めようと口を開いた。
背後で足音がした。振り向くと男が背を向けて走り去るところだった。トートバッグが上下に揺れている。呆然とその姿を眺めた。足音が次第に遠ざかっていく。男は走り続け、カーブした道の先に姿を消した。空のどこかで鳥が鳴いた。私とおじさんは顔を見合わせた。おじさんが不意に肩を竦めてみせたので、思わず笑ってしまった。
* * * * * * * *
その日の朝はよく冷えた。こんな日は早よ帰って酒飲むに限る、とおじさんが白い息で言った。朝日を受けて私は目を細めた。二人の足音があたりに吸い込まれていく。実習棟に男の姿はなかった。壁の張り紙が朝露で湿っている。私は猫アレルギーのチラシが消えているのに気づいた。いつもの場所には終了したライブのチラシが揺れている。ちょうど真ん中あたりが破れ、下から壁の色が覗いていた。おじさんは鍵を開けると警備棟へ帰って行った。
部屋で作品に向き合ったが、うまく集中できなかった。静かな部屋に朝日が差し込み、舞い上がる埃を照らしだす。私は筆を置いて膝を抱え、まばゆく揺れる埃を眺めた。光の向こうに行き交う学生たちの姿を思い描く。彼らの声に思考力を剥ぎ取られ、私は言葉の反響の中に溶けていく。私は無意識のうちに、誰かに同化してしまうことを望んでいる。
絵を描くのを諦めて筆洗を洗っていると、水音に混じって別の音が聞こえた。私は蛇口を閉めて耳をすませた。何かを剥がすような音だった。外から聞こえるらしい。私は窓際に近づいた。窓からは入り口付近が見下ろせた。
人影に目を見張った。あの男だった。黒い服で黒い鞄を肩にかけている。右手に布テープを握り、腕を組んでまっすぐ前を睨んでいた。視線の先は確認できないが、チラシの壁面を見ているのに違いなかった。
男が顔を上げた。私たちはその瞬間、正面から互いの目を見た。こうなることを私はどこかで予期していた。その目に浮かんでいたのは怯えかもしれない。私は窓から離れて身を隠し、外の気配を窺った。相手もこちらを探っている気がした。私は壁にもたれて腰を下ろした。目を閉じると走り去る男の姿が浮かんだ。それが夢か現か区別がつかなくなった頃、講義の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。目を開けたが、部屋には誰もいなかった。
一階に降りて外へ出た。壁に猫アレルギーのチラシが見えた。四方をテープで貼り廻らし、テープの上に隙間なく「はがさないでください」と書いてある。私はその執拗な言葉を眺めた。バランスを欠いた文字は歪み、大きさはまちまちで全く耐え難い筆跡だった。しかしだからこそ見つめてしまう、奇妙な中毒性も備えていた。
「あなた猫の世話をしていますね」
振り向くと男が立っていた。その目から怯えは消えていた。想像以上に高い声で、その体は吹けば飛びそうなほど華奢に見えた。やはり黄色い顔にだらしなく髭が生えている。私は黙って立ち尽くしていた。男はまた言った。
「猫の餌を持ち込んでいたでしょう」
「あれは頼まれただけです」
私はようやく言って首を振った。男は訝しげな目つきになった。学内の方方にチラシを貼るが、そのうち数カ所は毎回剥がされるのだと言う。そのために毎日貼り直しに来ているらしい。この前は貼り直したところで出くわしたのだろう。
誰に頼まれたんですか、と男は尋ねた。私は黙っていた。
「その人が猫の世話をしているんでしょう」
その人がチラシを剥がしているのに違いない、と男は断言した。声に自信が満ちている。あれは友人の家で飼われている猫の餌だと私は言った。そして声を出さずに嘲笑う男から目を背けた。
「アレルギーについて知っていますか」
男が得意げな顔で言った。首を振ってみせると、男は一歩前に歩み出た。血が出るまで掻いてもまだ痒い。鼻が詰まって息ができない。夜は眠れず、眠ってもうなされて暴れる。男は歌うように言い、上着の袖をまくった。細く白い腕に赤紫色の痣が見えた。どこか遠くで学生の笑い声が聞こえた。
「暴れる姉に殴られました」
男は言った。手柄を見せつける子供のようだった。
「あなたが猫アレルギーではないんですか」
男はまさか、と言って微笑んだ。猫アレルギーなのは姉で、男はその原因を排除しようと奔走しているらしい。むき出しの腕に鳥肌が浮き始めたが、袖を戻そうとはしなかった。
「姉にとってのアレルゲンは時々変わります。猫に反応し始めたのは最近です。僕が猫を触って帰った日は大変だった」
男は鞄から白い柄の粘着ローラーを取り出した。まくった袖を戻し、服にローラーを転がす。粘着部分をまじまじと見つめてから、私の目の前に差し出した。三センチほどの白い毛がついていた。
「あの姿を見せてあげたい」
男はそう言って、粘着ローラーを鞄にしまった。
(挿絵:UC EAST)
第6話 アレルゲン(2)に続く。